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第五項 農機具の変遷

  古老の言によれば、開拓当時は鍬(くわ)、鋤(すき)による腕
の工作であり相当の腕ききの者であっても一日で五畝(うね)位が
最高であった。
  明治八年北海道開拓使によって現七飯町に七重勧業試験場を置く
に当って様式農具、主として畜力による大農具が輸入されたが、こ
れは大農場的なところでは利用されたが、一般開拓農業には容易に
真似ることの出来ないものであった。
  明治十九年北海道庁制になり、七重勧業試験場は廃止され、附属
牧羊場であった用地を明治二十年に園田牧場として払下げを受け、
七重勧業試験場の農機具をそのまま引継いだが、一般農家が使用す
るまでには至らなかった。
  明治三十八年頃に十勝地方より両プラオを移入して畜力による耕
作が行われるに至った。
  この畜力の導入によって耕鋤労力が大きな発展をなし、その後逐次、
畜力耕転が普及され、更に機械化され今日では石油発動機による自動
耕転機が利用されるまでに発展した。
  開拓当初より明治初年頃までは病虫害に対する防除の方法もなかっ
たが、その後次第に農薬の発明があり大正末期まで水和剤で背負いの
機械で散布していたが現在は粉剤が完成され、又、動力による散布器
及噴霧器が普及され、本村に於いてもかなりの数が入っている。

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  脱穀も開拓当時は手で行われていたが、やがてセンバ(千歯・脱穀
に使用する農機具)を使用するようになり、大正五年足踏み脱穀器が
発明されてから次第にこの脱穀器を使用するようになり、更に発動機
による脱穀器に発展し、電力による脱穀機も普及されるに至って、一
日七、八時間にて一町歩分の脱穀ができるようになった。
  精米は臼に入れて杵で搗く手力であったが、明治四十二年に水車に
よる精米が行われるようになった。現在では石油発動機又は電力によ
って、昇降機付きの精米機に発展して自動式が多く採用されるに至っ
た。運搬器具としては、明治当初は一切駄馬によって行われていたが、
冬期間は人力による橇(そり)で函館より一台の橇に二人か三人で肩
に綱をかけて引いたものだということである。
  明治二十年に西川町に『長、車両製造があり一台十五円で金輪の馬
車を制作したのが、二輪馬車の始まりでその後に於いて、橇も馬に引
かせるように製作された。    
  これらの運搬器具も逐年改良されて昭和の初期より補導馬車が普及
されて現在に至っている。又、近年になってからは三輪自動車が農家
に普及されて来た。
  農機具の修理も昔はタタラを踏んで炭で焼く鍛治方法であったが、
その頃は七飯村や函館に行って修理したが、十年前より村内に山崎氏
が農機具工場を開設し、機械化された設備で農機具の製作修理が行わ
れている。

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  馬具も道産馬を使用した頃は麻製の馬具であったが、外国産の改良
馬を使用するようになった。
  し尿容器は昔は桶で杉、桧(ひのき)で製作され、桶一本五斗が標
準であった。今は四石入りの函でタンクと称した杉が一般に使われて
る。し尿槽も昔は素掘りの穴の中にし尿を溜めたものであったが、昭
和初期からコンクリートの百石入が普及され、最近では火山灰ブロッ
クの積重ねによる丸型が普及されている。
  堆肥場も土間のものもあるが、多くはコンクリートの床で尿溜を設
けている。

次回に続く
    第二節 亀田村農業協同組合

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開基百年記念誌「桔梗沿革誌」(2)
開基百年記念「桔梗沿革誌」(8)第一章 桔梗村開拓の由来 第四項 宝 皇 寺 
10 開基百年記念「桔梗沿革誌」(10)第一章 桔梗村開拓の由来 第六項 サイベ沢遺蹟
11 開基百年記念「桔梗沿革誌」(11)第二節 三軒家の開拓
◎ 
福田和助翁記念之碑探訪(西桔梗)三軒家の開拓での偉業を讃えた記念碑
12 開基百年記念「桔梗沿革誌」(12)第三節 桔梗小学校の開校
14 開基百年記念「桔梗沿革誌」(14)第五節 鉄道の開通と郵便局
15 開基百年記念「桔梗沿革誌」(15)第二項 桔 梗 驛 の 開 業 と 日 本 通 運
開基百年記念「桔梗沿革誌」(16)第二項 桔梗驛の開業と日本通運 日本通運桔梗営 業 所
18 開基百年記念 第二章 桔梗村の産業 ◎ 第一節 産業の推移 第一項 開拓の當初
19 開基百年記念「桔梗沿革誌」(19)第二章 桔梗村の産業
20 開基百年記念「桔梗沿革誌」(20)第二章 桔梗村の産業◎第五項 農機具の変遷
21 開基百年記念「桔梗沿革誌」(21)第二章 桔梗村の産業 ◎ 第二節 亀田村農業協同組合
22 第二章 桔梗村の産業 産業の推移◎ 第三節 中の沢開拓農業協同組合