◎ 第一節 産業の推移
 
     第三項 大根と白菜

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    大   根   
  明治四十一年十月に桔梗駅より蘭越駅に一車を移出し好評を得て更に一車を追加
した。
これが桔梗大根を移出した最初であると云われている。その数一万五千本であった。  
  その後次第に桔梗大根の声価が高まり稚内、北見、釧路、札幌江別、室蘭、苫小
牧、夕張等の都市へ移出されるようになった。
  大東亜戦争(太平洋戦争あるいは第二次世界大戦共表現)になってからは物資の
配給統制が行われ、函館へ出荷するよう命ぜられ、道内市場は壮絶状態にあった。
  又、不幸にも大根蠅による被害が多く、一時大根栽培は全く絶望視されたが、そ
の後農業薬剤の進歩、アリドリン薬剤に出現により再び大根移出の道が開けて来た。  
  現在は桔梗駅を通して農協の一部門として、桔梗疏菜組合を設立し、年間百万本
以上の大根を移出するに至った。移出先は主として室蘭、夕張の工業都市であり、
ここ数年来市場が固定している。
  明治四十一年初めて大根を移出してより、本年は丁度五十年の記念すべき年に当
たっている。
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   白   菜
  白菜は大根に次ぐ馬鈴薯の裏作の反別を有しているが、金額に於いては大根の総
額を凌駕している。従って換金作物としては馬鈴薯に次いで白菜、大根の順になる。
  白菜の消費の大半は函館であって、最近函館近郊の各町村の栽培面積の増大によ
って、生産が過剰の為、大東亜戦争後、道内移出を企図されたが、体裁の不備や結
球の不十分なもの混入などの為、信用失墜を来たし、これが挽回のため亀田村農業
協同組合の傘下のもとに昭和二十六年桔梗疏菜組合を結成、品質の向上に努め、そ
の取扱量、需要量も年々増大し大根と併せて特産桔梗白菜の名声を得つつある。
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  第四項 養蚕と天然水
  養   蚕
  明治の末期から大正の初めにかけて道庁は模範農家(モデル農家)を設定する時
に養蚕事業を普及させる為に試作をさせたが、気温が低く湿気多い本地域では成功
を収めることが出来なかった・
  当時の養蚕試作者は、青島芳太郎、桧山勝次の両家であった(以上古老の話)

  天然氷製造
  本村の製氷事業は、本村の草分けの一人、北山七三郎の兄、彦蔵氏が明治三十年
頃に村有地を借上げ、堤を築き本願寺用水を使用したのがその始まりであり、
爾後
各地に築堤を行い、部落民の冬期間の現金収入として大きな役割を果たした。当時
氷切人夫一日十五銭で、馬橇による運賃(駄賃と称した)は氷一枚、普通馬で二十
四枚積み、函館竜紋永宝寺まで運んだということである。
  その後、製氷事業が発展して函館氷として遠く東京、九州方面迄海上輸送されて
いた。
  この企業は本道開拓功労者である守田岩雄氏の手で行われたものである。
  現在では科学の進歩によって天然氷は人造製氷となって、その必要性を失い、昔
の氷池は水田になったり、灌漑用水池となって今も名残りをとどめている。  
  
次回に続く
    第 五 項  農機具の変遷
              
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開基百年記念誌「桔梗沿革誌」(2)
開基百年記念「桔梗沿革誌」(8)第一章 桔梗村開拓の由来 第四項 宝 皇 寺 
10 開基百年記念「桔梗沿革誌」(10)第一章 桔梗村開拓の由来 第六項 サイベ沢遺蹟
11 開基百年記念「桔梗沿革誌」(11)第二節 三軒家の開拓
◎ 
福田和助翁記念之碑探訪(西桔梗)三軒家の開拓での偉業を讃えた記念碑
12 開基百年記念「桔梗沿革誌」(12)第三節 桔梗小学校の開校
14 開基百年記念「桔梗沿革誌」(14)第五節 鉄道の開通と郵便局
15 開基百年記念「桔梗沿革誌」(15)第二項 桔 梗 驛 の 開 業 と 日 本 通 運
開基百年記念「桔梗沿革誌」(16)第二項 桔梗驛の開業と日本通運 日本通運桔梗営 業 所
18 開基百年記念 第二章 桔梗村の産業 ◎ 第一節 産業の推移 第一項 開拓の當初
19 開基百年記念「桔梗沿革誌」(19)第二章 桔梗村の産業
20 開基百年記念「桔梗沿革誌」(20)第二章 桔梗村の産業◎第五項 農機具の変遷
21 開基百年記念「桔梗沿革誌」(21)第二章 桔梗村の産業 ◎ 第二節 亀田村農業協同組合
22 第二章 桔梗村の産業 産業の推移◎ 第三節 中の沢開拓農業協同組合