函館市内に「五稜郭」、「四稜郭」があるのは知られてますが「三稜郭」もあった?! との噂も。
上空から見ると蝶のように見える「四稜郭」。函館を代表する観光地「五稜郭公園」は上空から見
ると五角形の星型になっていて、城郭跡を公園化したものです。1952年に特別史跡に指定され
ました。そして「四稜郭」も国の史跡に指定されています。五稜郭とは直線距離で3・3㎞離れた
北東、陣川町の高台に築かれました。上空から見ると蝶が羽を広げたようにも見え、四つの角があ
ることからそう呼ばれてきました。
  五稜郭は江戸時代末期の1868年に築城されたのに対し、四稜郭はその3年後、明治初期の1
869年に築城されました。建設は旧幕府脱走軍の大鳥圭介氏が指揮したと考えられており(諸説
あり)、函館一帯を一望し、五稜郭の背後を固めるために築かれました。
 地元の言い伝えでは、四稜郭は旧幕府軍脱走兵約200名と赤川・神山・鍛治村の約100名の
 村民を動員して、数日間の突貫工事で完成させたとしています。郭内の四隅に砲座は設置したも
 のの、建物は建設されませんでした。しかし完成から1か月たたない5月11日未明、新政府軍が四
 稜郭の攻撃を開始すると、松岡四郎次郎率いる旧幕府脱走軍の防御もむなしく数時間で陥落、五
 稜郭へと敗走せざるをえなくなりました。5月18日には五稜郭が開城され降伏、こうして箱館戦争
 は終わりました。ここは箱館戦争終盤の戦場の舞台となった地でもあったのです。
 箱館戦争終結後かなり荒廃が進んだ四稜郭は、昭和9年1月22日に国指定史跡となり、1973年
 に崩壊した土塁などを復元し現在に至ります。
 函館市北部には「三稜郭」もあった?

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  箱館戦争で砲台として使われた台場として、五稜郭、四稜郭に続き、三稜郭もあったとの説があ
  ります。「三」というからには上空から見たら三角形なのでしょう。しかしその場所はまだ謎に
  包まれており、推定される場所が複数あります。その一つが、五稜郭から約4㎞北西にある「桔
梗野台場跡」で、国道5号線沿いの比遅里神社の土地の形状がそれではないかと推測されています。
  もう一つの候補地はその数百メートル北にある宝皇寺です。元となったのは『国別 城郭・陣屋
・要害・台場事典』(西ケ谷恭弘)にある「図絵に見る限り三稜郭であったかと思われる」の記述
や地元郷土史文献。
 2000年代はじめに函館北高校郷土研究部が研究を行い、比遅里神社を三稜郭の最有力候補と
結論しています。比遅里神社を訪れてみると、それほど大きくない敷地ですが、確かに三角形の土
地の形状の台地になっていることがわかります。その南端の尖った敷地には土塁の跡がいまも残さ
れています。 まだ研究段階ではっきりと確定したわけではありませんが、五稜郭・四稜郭ととも
に、謎多き三稜郭(比遅里神社)の候補地を訪れてみてください。

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七飯町の七陵郭
 ちなみに、七飯町峠下には「峠下戦争勃発の地」「峠下台場跡」があります。
 これは1868年、フランス人ブリュネ氏が指揮して旧幕府軍が築城した約20m×約12mの土塁
で、尖った部分が七つある星形城郭は「七稜郭」と呼ぶに相応しい台場跡です(正式名称ではあり
ません)。この台場跡は昭和48年に元七飯町歴史館館長が再発見し、その存在が確認されるように
なりました。標高は函館山とほぼ同じ349m。七稜郭と呼ぶことがあるように、この台場跡には
突き出した角が七か所あります。樹林に覆われていることもあってその全体像を撮影することは困
難なのですが、東西に拡がる土塁がはっきり確認できます。 北海道ファンマガジンより
                                                 函館市桔梗町会広報紙『町会だより117号』に掲載された記事より