◎ 第一節 産業の推移
第一項 開拓の當初(とうしょ)
既に桔梗村開拓の由来でも述べたように、東本願寺の桔梗村開拓当初は、開拓農
民には男子米七合、味噌三十匁、女子には米五合、味噌二十匁、七才以下の子供に
は女子と同量の米、味噌が支給され、更に農具、馬引その他日常必需品が貸与され
ていたが、万延元年には、田四町歩、畑二十一町歩、馬七十六頭となり、その収穫
高は、米三十俵、粟、稗、大豆、小豆等合せて三百五十俵であった。
その後、慶応年間を経て明治五、六年頃までは、米の作付けを中止している。
これは当時は人口も少なく寒気酷しく、寒地向きの品種の研究も不十分で稲の成熟
が十分でなかった為であろう。田四町歩に対し、米三十俵というから一段について
一俵弱という計算になる。これでは到底採算がとれないであろうと思われる。
尚、明治四年には廃藩置県が行われ、それと同時に東本願寺では寺領であった桔
梗村を政府に献納している。従って明治四年以後は土地は開拓農民の個人所有とい
うことになった。
人口に比して馬の頭数が多いのは、当時物資を函館から運搬するのに道路は泥濘
(でいねい)膝を沒(ぼっ)する程であり到底人による運搬は不能に近かった。
又、農業それ自身では生活が出来難く馬を使用した運搬主として薪炭の運搬によっ
て辛うじて生活を支え得たものであった。従って馬は耕作に使用するというよりも
現金収入を得る為のものであった。
第二項 馬鈴薯と澱粉製造
本村に馬鈴薯の栽培されたのは何時頃かは明らかではないが、開拓早々自家食料
として栽培されたものと思われる。その後開拓の進むにつれて、寒地に適したこの
馬鈴薯は裏作が可能であることや価格が比較的安定しているなどの理由もあって次
第に普及されて来た。
大正四年、澱粉製造業をしていた佐々木善松氏が、七飯村鈴木農場(今の七飯町
桜が丘男爵薯発祥の地の記念碑のある地)より桔梗村に馬鈴薯の種薯が移入された。
これが現在の男爵薯の桔梗村に入った最初である。
この男爵薯は当時早生白丸薯、千貫穫薯とか豚薯とか各人各様の名で呼ばれてい
た。
その後大正十三年西田外次郎氏が狩大方面より集荷販売当時、隣村大中山の渋谷
氏の依頼で群馬県前橋市の金子商店へ桔梗の薯を発送したのが馬鈴薯移出の最初で
あるという。
爾来、年間に百車以上の移出をして来たが、その頃は早生白丸種子として移出さ
れたとの事である。当時一俵消費地着で三円であったとう。この白丸が後に男爵薯
薯と命名されて今日道南亀田薯として高く評価されているのである。桔梗村の総生
産量は五万俵を超えるまでに発展したのである。
〇 でん粉製造
古老の話によれば明治二十年頃(今から七十年前)本村草分けの一人である間瀬
徳温氏の実弟五十嵐賢秀氏が、本願寺用水を利用し現在の桔梗墓地附近で水車利用
による澱粉製造を創業したのが本村における澱粉事業の起こりである。当時は澱粉
一升(一六〇匁)をとったという。
馬鈴薯の反別は当時は一段から最高二反位であり、収穫も一段六俵位であったと
いわれる。
買隷書の普及、作付反別の増加と共に澱粉業者も増え、又、製造機械も進歩発展
し、動力化された能率的な機会が導入され、天日乾燥、火力乾燥より熱風乾燥に発
達し、製造能能力も目覚ましいものがある。
現在桔梗村においては業者五店を数える。
次回に続く
第 三 項 大根と白菜
第 四 項 養蚕と天然水
第 五 項 農機具の変遷
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