◎ 日 本 通 運 桔 梗 営 業 所
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◎ 日 本 通 運 桔 梗 営 業 所

  明治二十八年桧山勝次が桔梗二十八番地に定住し、約二十町歩に及ぶ山林原野の
開拓に着手しておったが、北海道鉄道株式会社が鉄道敷設の計画をし、同開拓地を
通過する事となった。明治三十五年十月函館~本郷間(今の渡島大野駅)の開通
見たが、鉄道会社では運送店の必要を力説されたので、桔梗駅開業と同時に桧山勝
次が駅前に運送店を開いた。当時は個人経営であって函館の有力運送店の代理店や
取引店をも合わせて行い、その後全道的に横の統一をはかり、運送業者を一環とし
一印や(大上)の店号を使用し、又、内国通運、次いで国際通運株式会社の傘下に交
互計算引換証などの統一取扱業務を行った。
  昭和十五年三月檜山勝次死亡によって長男善次がその業務を継続した。その後貨
物の取扱数量も漸次向上の一途をたどり、秋野菜、馬鈴薯等の取扱数量も年間五千
トンに及んでいる。

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  昭和十七年二月第二次世界大戦のため、国策によって日本通運株式会社に買収さ
名称も日本通運株式会社桔梗営業所となり初代所長に檜山善次氏が任ぜられた。
  昭和二十六年十一月より日鉄鉱業株式会社の赤沼鉱山より鉄鉱石の発送があり年
間五千トン乃至六千トンに及ぶ。赤沼鉱山より桔梗駅まで凡そ八キロの輸送には函
館(通)より自動車約十五台~二十台が活躍した。二十九年からは(通)のトラックに
代わり、日本国有鉄道・上の国自動車営業所が運送に活躍したが昭和三十二年十月、
日鉄鉱石の発送中止ため、自動車営業所も他に転じたが、この六ヶ年間貨車積み下
し作業は終始一貫(通)桔梗営業所で行い、外に秋野菜、馬鈴薯等四千トンの発送が
あり輸送方面に大いに活躍し国民生活の一端の責任を果たしている。又、到着にお
いてもワラ工品、農薬等の農家必需品も多くの数量の取扱いを行った。
  昭和二十九年八月檜山善次退職となり、後任として函館支店より大西幸吉が任職
し、その後二本柳庄一郎所長となって現在に及んでおり、桔梗村の発展に伴い、輸
送方面に於ける責務の重大さを痛感し日夜専心している。又、業務方面も運送保険
、火災保険、自動車保険、傷害保険等の取扱い、航空便、海運重量品輸送等、あら
ゆる輸送を機械化し一般輸送に寄与しつつある。

  
次回に続く

    第 六 節  消 防 と 官 公 衙(ガ、ギョ)
    第 一 項 亀 田 村 消 防 団 第 一 分 団
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