第 五 節   鉄 道 の 開 通 と 郵 便 局
     
第一項 新 旧 国 道

  旧道については何時頃に開削されたかは詳かではないが古しいは凡そ河川の
最も浅い箇所を選んで歩いたとと思われる。
  嘉永六年、五十嵐義度の蝦夷絵図によれば亀田村(今の函館市八幡町学芸大
学前から大川町の中学校の前を経て亀田村の桐花中学校前の村道)から石川野
(今の村道昭和旧国道)吉更野(文献のまま、今の桔梗の神社前)から旧道に
入ってニンニク沢を経て大川(今の大中山の旧国道)を通って七飯方面に歩い
た箇所を赤い線を引いて示されているのを見れば、現在と照合するに今の桔梗
で見るに、昭和と境の箇所、サイベ沢、ニンニク沢、大川等の旧国道を見れば
伺われるところである。
  尚、昔は今のような幅員のある道路ではなかった事と思われるが、開拓使の
設置された明治の初めに今のような幅員のある道路にした事と思われる。
  昔は橋を架けないで川の中を越えたものと思われる。
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  国 道 の 新 設
  
  明治五年に函館―森間の新道竣功となった着工は明治三年とのことで開拓使
函館支庁が設置されて最初の事業と思われる。この時に初めて石川、サイベ沢、
ニンニク沢に欄干のついた橋が架けられ
て村人はお盆になればこの橋の上で盆
踊りをして楽しんだとのことである。
  この新道が出来て道路の両側に今緑映している老松がこの新道竣功祝いに
植えられたと語り続けられている。明治九年、明治十四年と二回に亘り明治天
皇が行啓
になられた時の道路は相当立派なもので砂利敷道であったと。その時
御前水は明治九年は旧近江五郎吉氏の井戸、明治十四年の時は今の山田時次
郎氏の所の井戸
であったとのことであるが勿体ないとの考えから埋めたとのこ
とである。
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  この良かった新道も文化の進むにつれて明治二十年以来金輪馬車ができてか
ら道路が悪くなった。それで並木松を切って道路に敷いて通って歩いた。その
ため並木松が昭和方面に不足になった原因とのことであり、尚、道路が悪かっ
たので当時下石川野(今の昭和)の道路で相当大きい馬であったが荷物の関係
もあっただろうが、穴に金輪馬車が埋まったのを上げる為に馬をセッカンした
為、馬が道路で馬車をつけたまま死亡したこともあり、又、道路に穴が多くて
馬車をこわした事などは枚挙にいとまないことであった。
  今、道路完全舗装工事であるが、この基礎石は大正末期から昭和の初め七飯
の石山よりトロッコで馬に曳かせて簡易舗装されて以来道路は良くなったので、
昔は如何に道路のために住民は苦労されたかは全く言語に尽くされぬものがあった。
  今日、幸いにもコンクリートの完全舗装が完成するに至った。
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次回に続く    第 二 項  桔 梗 驛 の 開 業 と 日 本 通 運」
          

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開基百年記念誌「桔梗沿革誌」(2)
開基百年記念「桔梗沿革誌」(8)第一章 桔梗村開拓の由来 第四項 宝 皇 寺 
10 開基百年記念「桔梗沿革誌」(10)第一章 桔梗村開拓の由来 第六項 サイベ沢遺蹟
11 開基百年記念「桔梗沿革誌」(11)第二節 三軒家の開拓
◎ 
福田和助翁記念之碑探訪(西桔梗)三軒家の開拓での偉業を讃えた記念碑
12 開基百年記念「桔梗沿革誌」(12)第三節 桔梗小学校の開校
14 開基百年記念「桔梗沿革誌」(14)第五節 鉄道の開通と郵便局
15 開基百年記念「桔梗沿革誌」(15)第二項 桔 梗 驛 の 開 業 と 日 本 通 運
開基百年記念「桔梗沿革誌」(16)第二項 桔梗驛の開業と日本通運 日本通運桔梗営 業 所
18 開基百年記念 第二章 桔梗村の産業 ◎ 第一節 産業の推移 第一項 開拓の當初
19 開基百年記念「桔梗沿革誌」(19)第二章 桔梗村の産業
20 開基百年記念「桔梗沿革誌」(20)第二章 桔梗村の産業◎第五項 農機具の変遷
21 開基百年記念「桔梗沿革誌」(21)第二章 桔梗村の産業 ◎ 第二節 亀田村農業協同組合
22 第二章 桔梗村の産業 産業の推移◎ 第三節 中の沢開拓農業協同組合