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     第 四 節   園 田 牧 場 と 場 主 実 德

   昔は各村に於いて共同牧場を設け自由に牛馬を飼育していたが、明治八
年開拓使が
現在の七飯町に七重勧業試験場を置くにあたって、別に桔梗野
に約百五十万坪の土地
をみつけ、その附属牧羊場用地として、翌春融雪を
待って牧羊舎及び事務所を設けて
東京麻布開拓使三号官園から支那羊六百
余頭を移入して飼養した。
   これが本道に於いて牧羊の行われた最初である。その後更に緬羊数百頭
を輸入した
が土地に適しないためか、いずれも成績が上がらず遂に牧羊業
を全廃するの止むなき
に至った。後に若干の牛馬を放牧し、わずかに放牧
場としての名目を保つだけにとど
まっていた。
   明治十九年一月、北海道庁制となり、七重勧業試験場を廃して改めて七
重種畜場を
開設したが、これも経費の節減や、管制の改革によって規模を
縮小しなければならな
くなり桔梗野牧場はだんだんと顧りみなくなってし
まった。
  ここに於いて園田実德は、本道畜産業の前途を憂慮し、独立で経営しよ
うと思い、
貸下を申請したところ明治二十年三月、許可を得る事に成功し
たので園田
牧場と改称し牧畜の業を始めた
   牛馬は七重種畜場から払下げを受け、又新たに本道各地から購入したも
のと、自家
所有のものを合せて牛二十頭、馬十九頭に過ぎなかったが、明
治二十三年、七万余円
を投じて種畜牛馬輸入購入をはかり、ポルトガル・
バボルナ牧場から純血アラブ種牝
馬『ザリーフ号』を、又乳牛、豚をオラ
ンダ、イギリスから購入して、設備の整頓と
飼養の改善をはかり畜殖の努
力した結果、年々その数を増して成績もようやく顕著に
なってきた。
   明治四十四年大正天皇が東宮であらせられた時、本道行啓の際本牧場に
御台臨にな
り優勝牛馬をご覧になった。その時自ら壱頭所望の御沙汰によ
って場主恐悦して内国
産洋種第八セント号献納の栄を賜り、且次の意味の
台命を拝した。
    『二十五年ノ久キ克苦碎心以テ今日ノ盛況ヲ致ス、尚益々奮励セヨ』と、
又同時に家族一同拝謁を許されて即時、御紋章付き銀杯一個と白縮緬一疋
を賜った。
     当 時 の 牧 場 地 積
        水田地    二十五町八反三畝六歩
        畑  地    二百十六町六反四畝二十五歩
        宅  地    二町五反一畝二十五歩
        山林地    九十三町一反五畝四歩
        放牧地    三百三町二反七畝十四歩
          計      六百四十一町四反三畝十四歩
          
  畑地は動物飼料生産の目的をもって農作物を栽培し、その面積は百八十四町五畝二十五歩であるが残りの畑地三十二町一反歩余と、水田の全部は小作として耕作させて
おり、小作人に対しては、畜牛の畜殖飼育を奨励したり、会員の親睦を密にするため
慈愛組合会を組織させたり、耕作上に必要な資金を要する場合には、月一分の利息金
で貸与したりして小作人の生活の安定をはかってやった。
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                    牛 馬 匹 現 在 数          ( 大正六年末調査 )
  サラブレット種    牝 十五    牡 六
  内国産洋種        牝 十五    牡 七
  ベルシュロン種    牝  六     牡 〇
  ベルシュロン雑種  牝 一七    牡 一
  内 国 産          牝  一     牡 一
       計           牝 五十四  牡 十五 (六十五)
  ホルスタイン種    牝 三十三  牡 十二
  エーアシヤ種      牝 十九    牡 十二
  ホルスタイン雑種  牝 四十一  牡 二
  エーアシヤ雑種    牝 一      牡 〇
       計           牝 九四    牡 二一 (一一五)
緬羊
  メリノー種        牝羊 三十二頭  牡羊二頭
  奄  羊     四頭     計  三十八頭
  
   緬羊は農家の副業として適すると思い、試験用として牝牡八頭を青森県
野辺地雲雀牧場から購入して畜殖に従事してきたが漸次その成績が良好に
なったので、益々努力を傾注したのである。
   羊毛は壹頭平均四・八キログラムから五・七キログラムぐらいをとり、
東京府下千住製鐵所へ販売しておった。又本場産牛、馬、羊は年々各地へ
販売輸出しており、搾取乳は朝夕二回、函館園田牧場牛乳所(函館区東雲
町二四二番地)に鉄道便で輸送、同所で蒸気殺菌して函館市内に配達販売
していた。
   このように大規模な牧場経営を行い、着々とその成果を挙げ園田牧場の
名声を広く道内に響かせ、近郊の人々からは遠足地として、又スキー場と
しても幾多の人々から愛され
、親しまれきたが、終戦後、農地改革のため
所有地は没収された。そして小作人に開放され斜陽となってしまった。
   現在は牧場の跡もなく、わずかに旧園田邸が昔のおもかげをしのばせて
いるが、それも人手に渡り、何一つ残るものもなくなってしまったが、
広漠たる畑地には菜の花が咲き、蝶が乱れ飛び、馬鈴薯の山が長く横たわ
り、大根が青々と伸びていくのを見る時、今遥かに当時を振り返り、今日
の基礎を築いてくれた園田実德氏の偉業に感謝と敬意の念を強く抱くもの
である。
   この外、園田実德氏は明治の中期に函館一本郷間鉄道を敷設セメント
工場の建設、船渠会社の設立、水力発電、銀行の設立
など、道南発展の基
礎を作られた。
   又特記すべき事項として、釧路で馬の神様として全国的に有名な神八三
郎翁の畜産牧場は馬の育成に於いては右に出る者のない程で、名声を博し
ているが、その原種馬は園田牧場から送られており、当時の園田牧場が北
海道畜産振興に如何に貢献
したかが伺われ、永久に桔梗村歴史の一頁とし
て後世に残るであろう。

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開基百年記念誌「桔梗沿革誌」(2)
開基百年記念「桔梗沿革誌」(8)第一章 桔梗村開拓の由来 第四項 宝 皇 寺 
10 開基百年記念「桔梗沿革誌」(10)第一章 桔梗村開拓の由来 第六項 サイベ沢遺蹟
11 開基百年記念「桔梗沿革誌」(11)第二節 三軒家の開拓
◎ 
福田和助翁記念之碑探訪(西桔梗)三軒家の開拓での偉業を讃えた記念碑
12 開基百年記念「桔梗沿革誌」(12)第三節 桔梗小学校の開校
14 開基百年記念「桔梗沿革誌」(14)第五節 鉄道の開通と郵便局
15 開基百年記念「桔梗沿革誌」(15)第二項 桔 梗 驛 の 開 業 と 日 本 通 運
開基百年記念「桔梗沿革誌」(16)第二項 桔梗驛の開業と日本通運 日本通運桔梗営 業 所
18 開基百年記念 第二章 桔梗村の産業 ◎ 第一節 産業の推移 第一項 開拓の當初
19 開基百年記念「桔梗沿革誌」(19)第二章 桔梗村の産業
20 開基百年記念「桔梗沿革誌」(20)第二章 桔梗村の産業◎第五項 農機具の変遷
21 開基百年記念「桔梗沿革誌」(21)第二章 桔梗村の産業 ◎ 第二節 亀田村農業協同組合
22 第二章 桔梗村の産業 産業の推移◎ 第三節 中の沢開拓農業協同組合