明治十五年五月二十二日亀田郡書記、素木真龍氏、桔梗村総代中沢伝助、松本兵七、
田中半兵衛外三名、石川総代高松松次郎右衛門、徳田忠之、西谷津衛門等と戸長役場
に会合し、石川両村聯合にて一学校を設立の事を相談した。
田中半兵衛外三名、石川総代高松松次郎右衛門、徳田忠之、西谷津衛門等と戸長役場
に会合し、石川両村聯合にて一学校を設立の事を相談した。
同年九月二十六日石川村総代高松次郎右衛門、輪島又七両氏を亀田郡役所へ呼び、
桔梗、石川両村聯合の学校を先に差し出した受書日限が既に経過しているので急いで
新内協議をし設立伺書を進達するようにととの説明があり、その後桔梗村総代川井三
之烝、松本兵七及び村内の有志、田中半兵衛、松本甚右衛門、中沢伝七等は小学校開
設について協議し、これに盡(じん)力された。
桔梗、石川両村聯合の学校を先に差し出した受書日限が既に経過しているので急いで
新内協議をし設立伺書を進達するようにととの説明があり、その後桔梗村総代川井三
之烝、松本兵七及び村内の有志、田中半兵衛、松本甚右衛門、中沢伝七等は小学校開
設について協議し、これに盡(じん)力された。
同年十月二十五日五十嵐治太郎氏小学四等准訓導として桔梗小学校在勤を命ぜられた。
同年十月二十八日亀田郡長広田千秋氏、凾舘県御用係大場宗明氏亀田郡書記素木真
龍氏及び、亀田郡受持訓導川島元盈(み・えい)氏等は郡内を巡回して亀田郡大中山
村に同日に泊られ、桔梗村総代川井三之烝、松本兵七、田中半兵衛、中沢伝助、佐々
木為右衛門等と会合し、学校開設の時期について種々協議した結果十一月十二日に開
業の指揮を挙行することに決めた。
龍氏及び、亀田郡受持訓導川島元盈(み・えい)氏等は郡内を巡回して亀田郡大中山
村に同日に泊られ、桔梗村総代川井三之烝、松本兵七、田中半兵衛、中沢伝助、佐々
木為右衛門等と会合し、学校開設の時期について種々協議した結果十一月十二日に開
業の指揮を挙行することに決めた。
同年十月三十日桔梗小学校設立の伺書を差し出し亀田郡役所を経て函館県庁に進達
した。
次に学校の位置及び寄附金、月々の集金人命並びに学校一ケ月の収入及び支払概目
した。
次に学校の位置及び寄附金、月々の集金人命並びに学校一ケ月の収入及び支払概目
は次のようになっている。
一、学校位置 渡島国亀田郡桔梗村三番地
下斗米音八氏の家屋借家
一、常費概額 一ケ月 金 壱弐円七十銭
内 訳
教員給料 一ケ月 金 八円
書籍新調及補理費 一ケ月 金 壱円
借家料 一ケ月 金 壱円五拾銭
薪炭油費 一ケ月 金 弐円
雑 費 一ケ月 金 弐拾銭
生徒授業料 一ケ月 金 壱円弐拾銭
村内集金 一ケ月 金 拾弐円弐拾銭
有志寄附金 一ケ月 金 七拾六円五拾銭
寄 附 金 人 員
有竹裕、中沢弥三郎、北山七三郎、杉本甚右衛門、中沢伝助、青島芳右衛門、中田
藤兵衛、坂口尚行、川井三之烝、田中半兵衛、間瀬徳温、松本平七、佐々木善衛門、
藤谷栄蔵、近江五郎吉、清水清益、平森八三郎、北山六三郎、松本勘十郎、金沢重助、
川口八郎、越原惣兵衛、大窪佐吉、近江新三郎、下斗米音八、畑山初五郎、小室彦助、
加賀重治、上杉芳伴、青木市郎平、新谷菊松、川嶋久次郎、三好謹二郎、田中清右衛
門、
藤兵衛、坂口尚行、川井三之烝、田中半兵衛、間瀬徳温、松本平七、佐々木善衛門、
藤谷栄蔵、近江五郎吉、清水清益、平森八三郎、北山六三郎、松本勘十郎、金沢重助、
川口八郎、越原惣兵衛、大窪佐吉、近江新三郎、下斗米音八、畑山初五郎、小室彦助、
加賀重治、上杉芳伴、青木市郎平、新谷菊松、川嶋久次郎、三好謹二郎、田中清右衛
門、
明治十五年十一月二日学校設立が認可され、同月十二日開業式を挙行する旨を桔梗村
総代より亀田郡役所へ届出す。
総代より亀田郡役所へ届出す。
同年同月三日桔梗村民一同を戸長役場へ呼び出し学務委員二名、学校世話係三名を選
挙しその高点を収めた者田中半兵衛、松本平七を学務委員、杉本甚右衛門、中沢伝助、
佐々木為右衛門を学校世話係として選んだ。
挙しその高点を収めた者田中半兵衛、松本平七を学務委員、杉本甚右衛門、中沢伝助、
佐々木為右衛門を学校世話係として選んだ。
同年八月八日杉本甚右衛門、中沢伝助、佐々木為右衛門、学校世話係に命ぜられる。
同年同月同日、五十嵐治太郎鍛冶学校へ転任す。
同年同月十日、上村正夫小学五等准訓導を申し付けられて桔梗小学校在勤となる。
同年同月十二日午前十時開業式を挙行、式に参列するもの、亀田郡長広田千秋氏、凾
舘県八等属原直次郎氏、同御用係大場宗明氏、亀田郡書記素木真龍氏、凾舘師範学校
三等教諭井上小四郎氏、亀田郡受持訓導川島元盈氏外、戸長及教員、学務委員、学校
世話係、村総代、村内父兄多数参列の下に盛大に挙行された。尚、席上祝文、演述等
があり出席児童は男十二名であった。
舘県八等属原直次郎氏、同御用係大場宗明氏、亀田郡書記素木真龍氏、凾舘師範学校
三等教諭井上小四郎氏、亀田郡受持訓導川島元盈氏外、戸長及教員、学務委員、学校
世話係、村総代、村内父兄多数参列の下に盛大に挙行された。尚、席上祝文、演述等
があり出席児童は男十二名であった。
同年同月二十五日田中半兵衛、松本平七学務委員に任命せらる。
同年十二月十八日馬耕農具、二頭引壱個、一頭引壱個、馬具共下渡しがあった。
このように我々の祖先は学校教育の必要性を痛感し、いろいろな困難を乗り越えて
明治十五年十一月十二日開校以来、現在七十七年に至っている。現在の校長清水省吾
氏は十二代で、児童数も開校当時は十二名であったのが現在は五四四名の多きにわた
って<中の沢分校をのぞく>おり、校舎も写真のように一大変遷し、教職員も百有余名
を送迎、卒業生二千八百余名を送る現在にまで至ったのである。
明治十五年十一月十二日開校以来、現在七十七年に至っている。現在の校長清水省吾
氏は十二代で、児童数も開校当時は十二名であったのが現在は五四四名の多きにわた
って<中の沢分校をのぞく>おり、校舎も写真のように一大変遷し、教職員も百有余名
を送迎、卒業生二千八百余名を送る現在にまで至ったのである。
最後に児童、生徒の変遷と開校以来の卒業生数を記しておく。
(編集の都合により十二、十三頁掲載)
画像をクリックで拡大できます
画像をクリックで拡大できます
コメント