第二節 三 軒 家 の 開 拓

  本村の穀倉地帯といわれている三軒家、その名の如く明治十七年秋田県釋迦内村か
福田和助(嘉永四年生れ)が、翌年親戚関係にあった福田作助、福田幸吉が北海道
にあこがれて渡道され、道南の恵まれた気候条件を考えてか当時開拓されていた大川
(今の七飯町字大中山)の中村岩次郎氏の先代のもとに落ち着き、土地の物色を乞う
たら、蒜沢川の流域に函館の五十嵐と言う人の所有地があるからとの照会を受け、地
主の了解を得て掘立小屋を建て開墾したのに始まる。
  翌々年の明治十九年に福田作助の勧誘を受けた親類の福田藤松が、赤川村近江新三
郎氏の土地(今の西桔梗七五二番地)に入植、それから二年後、即ち三人が入植して
から四年後に福田和助の親類の小堀兼次郎の入植があり、それから四年後に福田幸吉
の兄、福田東吉の入植があって、逐年秋田方面より移住者が増えたが、当初の三人は
いずれも家族同伴で移住、蒜沢川の北側、従って七飯町大川地区に入植したが、当時
は行政区域を左程問題とせず、地域的に結合していた事で、その後の移住者は西桔梗
地区に入植したが、部落形態が成るにつけて名称誰つけたともなく三軒家と呼び、当
初は桔梗本村に遠い為、間近の七飯村大川との同一生活環境にあった。
  この地域は蒜沢川の流域で、ヨモギ、ヨシシゲ等一丈余りに茂る状態で、地味肥沃
のため畑作を主として大豆、小豆、稗、粟などの耕作をなし、明治二十二年頃に水田
を蒜沢川より用水して、二反歩を近江新三郎氏の土地に試作したが、冷害の為充分実
らず未熟籾を蒸してから天日乾燥して籾摺(もみずり)をして食用に供するなどの苦
労があったが、これにひるまず造田に努力され、この地域の現在の水田五十町歩余、
畑採草地など五十町余あり、当初小作農が多かったがよく勤勉に働き、親戚縁者の部
落にて団結力旺々盛んにして豊かな生活をなして今は全部自作農である。
  現在、戸数三十戸に発展し、昔の大川地区に依存した三軒家部落は完全独立をもっ
て桔梗の中核部落になっている。この部落は敬神の念厚く、高台に稲荷神社を建立
毎年の例祭は旧十月十日に執行されている。また、宗派は禅宗で七飯の宝淋寺の檀
家が多い。
  尚、三軒家は福田和助を中心に開拓された部落なので、昭和四年十月、その徳を
忍び偉業を千古不朽に伝えんとして、渋谷文治、福田文次郎外十四人が発起人となり
神社境内に記念碑を建立している。   

 この後、記念碑の場所を探しあて立派な神社を訪れることができました
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福田和助翁記念之碑探訪(西桔梗)三軒家の開拓での偉業を讃えた記念碑
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開基百年記念誌「桔梗沿革誌」(2)
開基百年記念「桔梗沿革誌」(8)第一章 桔梗村開拓の由来 第四項 宝 皇 寺 
10 開基百年記念「桔梗沿革誌」(10)第一章 桔梗村開拓の由来 第六項 サイベ沢遺蹟
11 開基百年記念「桔梗沿革誌」(11)第二節 三軒家の開拓
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福田和助翁記念之碑探訪(西桔梗)三軒家の開拓での偉業を讃えた記念碑
12 開基百年記念「桔梗沿革誌」(12)第三節 桔梗小学校の開校
14 開基百年記念「桔梗沿革誌」(14)第五節 鉄道の開通と郵便局
15 開基百年記念「桔梗沿革誌」(15)第二項 桔 梗 驛 の 開 業 と 日 本 通 運
開基百年記念「桔梗沿革誌」(16)第二項 桔梗驛の開業と日本通運 日本通運桔梗営 業 所
18 開基百年記念 第二章 桔梗村の産業 ◎ 第一節 産業の推移 第一項 開拓の當初
19 開基百年記念「桔梗沿革誌」(19)第二章 桔梗村の産業
20 開基百年記念「桔梗沿革誌」(20)第二章 桔梗村の産業◎第五項 農機具の変遷
21 開基百年記念「桔梗沿革誌」(21)第二章 桔梗村の産業 ◎ 第二節 亀田村農業協同組合
22 第二章 桔梗村の産業 産業の推移◎ 第三節 中の沢開拓農業協同組合