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開基百年記念「桔梗沿革誌」(10) 第六項 サ イ ベ 沢 遺 蹟
開基百年記念「桔梗沿革誌」(10) 第六項 サ イ ベ 沢 遺 蹟
広大な亀田平野を背にし、盡(つ)きることのない自然の宝庫で山の幸に恵まれ、
前面はアサリ、ホッキ等の貝類を始め魚類、海獣などの海の幸が豊かであって大自然
と共に生きる先住民の生活には好条件の場所・・しかも、北方と本州とをつなぐ要路
に位置するサイベ川の川口は湾入の深い自然の良港で、なだらかな西斜面は日当たり、
排水、水の便共によく汐風を防ぐ小高い丘のかげに竪穴生活が営まれていたのであっ
た。
その頃の北海道は、南は九州より北は北海道及び樺太南部にわたってひろがってい
た縄文文化の一つをなしていたが、それは地方々々により独特な発達を遂げていた。
即ち道北地方にはオホーツク式文化圏、その中間にある札樽地方には両文化を取り入
れて出来た余市式文化圏があった。サイベ沢遺蹟は円筒式文化圏内の最も代表的な遺
跡ですが、この文化は東北地方、特に下北、津軽両半島に及んでいる。
遺蹟は二か所あって第一次の発掘は昭和二十四年五月三十日より一号遺蹟から始め
五米から十五米の区域が選ばれ、先ずシレンチの試掘が行われた。それは地層とそ
の層内に含まれる遺物の特徴を知るためで深さ約五米、地層は二十五層、その中に砂
層、火山灰層がいくつか含まれている。
地層が生成された数千年間に横津岳の噴火、サイベ川の氾濫が何遍かあったのだと
思われる。それだけに、その数千年の間にどのように地層や文化が移り変わったかを
知る事ができる。
上層から出土する遺物と下層から出土する遺物との間には大きな違相が見られ、上
層から発見された遺物の主なものは、厚く、作り方が粗末で結繩紋、貼付紋、刻紋、
隆起紋等雄渾(ゆうこん)な模様がつけられ、口縁部は変化の多い円筒の土器と粗造
な石小刀、ヤジり、石槍、石斧及び石冠等の石器類と珍しい土偶、土版、石製、土製
の円形装身具などであった。
下層から発見されたものは薄く、胎土に植物性のせんが多くまじっている極めて細
かい撚糸紋や押繩紋を施し、内面の滑らかな円筒形の土器で石器は念入りに作られた
石小刀、石ヤジり、磨製石斧、装身具の玉類であった。このように同一の場所に数千
年にわたって遺物が積み重ねられたことはめったにないことで、下層式から上層式に
移るその折々の生活のあり様がよくあらわれ、これらの数は、土器の完全な形をした
もの三十個、組み立てることが出来るもの約百個、破片は数千片、石器の総数は約一
自然遺物には海陸棲の獣骨、鳥骨等があり、下層ほど多く発見されております。
又、珍しいことに下層から炭化したくるみが出土していた。
なお、下層の積石の下から、頭を北西に向けた仰臥屈葬の人骨を発見しましたが、
資料にならなかったのは遺憾でした(大場助教授談)
二号遺跡は一号遺跡の西方にあって、地層は十七層でしたが、崖に堆積していたの
で層位が幾分明確さを欠いていた。
黒土層に次いで厚さ二十糎(センチ)にわたる海層があり、その中に骨針、骨銛(
もり)など殆んど元の形を保った骨角器の出土が多く、見事な鹿角など一号遺跡に見
られなかったものが多く出土した。
土層では、二、三十年で全く腐蝕してしまうが、貝層に含まれているときは、貝が
分解するため、骨はそのままの形に保存される。したがって骨角器をはじめ、鹿、熊
期待された人骨は発見されなかったため、先住民族については遂に解決できなかっ
た。このサイベ沢の文化をつくった人たちはどんな人種であるかは、謎のまま残され
ているわけである。
このサイベ沢はその後、史蹟に指定され、郷土の先住民の遺蹟として永久に保存さ
れることになっております。
サイベ沢のほかに亀田村には煉瓦台に円筒上層式と余市式との混じった約二千五百
年前の土器、四陵郭に円筒下層式で縄紋、点列縄紋等の附されたもの、赤川駐在所裏
に円筒上層式土器、更に中ノ沢、石川、赤川旧射撃場など、方々に多数石器や土器が
出土している。けれども、これらは皆、表土採集で考古学的に正式に発掘されたもの
(註 亀田中学校編集「亀田村の歴史」より)
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