第五項 比 遅 里 神 社
比遅里神社は安政五年(1858年)の創立で、神体は聖徳太子の絹絵図であって
神体の出所は現在も不明であるが、おそらくは東本願寺であろうと言われている。
毎年九月二日宵宮祭、三日に本祭を行っている。境内の南方は明治九年及び十四年
の二度、明治天皇が行幸あらせられた地で、今は碑を建立し、柵を廻して其の跡を記
念している。尚、大正天皇も皇太子であらせられた頃(明治四十四年八月)一度行啓
の栄を賜っている。
社名の比遅里神社は聖徳太子の聖(ひじり)の文字から名付けられたといわれてい
るが、比遅里は聖をもじったものかどうかはよく分からない。
大正四年九月二十一日、庁令第八十三号を以て、神饌幣帛料(しんせんへいはくり
ょう/きょうしんじんじゃ)を供進(郷社、村社を対象に明治から終戦に至るまで勅
令に基づき県令をもって県知事から、祈年祭、新嘗祭、例祭に神饌幣帛料を供進され
た神社)する神社に指定されている。
又、この地付近は明治維新の際の古戦場と言われ、吉田次郎氏の「桔梗原の詩」
満郊曉霧奪紅瞰 唯有砲声轟陣門 叱陀敗兵鞭病馬 飛騨如雨桔梗原
日南福本誠氏の桔梗野を通過した時に詠じたものに
武士の屍 草むす野上より 蝦夷の渡島の秋やたつらん。
桔 梗 村 地 名 の 由 来
開拓当所は東本願寺開墾場桔梗野(蝦夷国六条郷安寧村)と称しておったが、入植
当時は雑草篷々として飛禽走獣の巣窟にすぎず、平野荒蕪として、神山、赤川二村民
が秣草を刈り取りに来た以外は、人跡を絶っていたと伝えられる。しかし桔梗野とは
何時の頃から言われたのか不明であるが、桔梗の花が野を俺って茂っていたから、そ
の名があるとという事である。
明治四年五月、東本願寺の支配を離れて独立した一村となり、桔梗村となった。
その後、地方行政制度改変のために行政区画も数回変更し、昭和六年三月亀田郡亀
田村字桔梗とすることになって現在に至っている。
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