第  四  項     宝   皇   寺 

  開拓と教化とに多大の努力を傾注し、現在の基礎を築いた東本願寺別院宝皇寺は、
安政六年巖如上人の開基によるものであるが、本院から勤番を置いて移住民を教導し
てきたが、後に箱館奉行小出大和秀実より幕府将軍の歴世中に同号のものがあること
を諭され、更に宝皇寺と改称したものである。
  最初は本山の別院であったが、明治十一年十月寺院明細改正に際して一般末寺(ま
つじ、とは、本山の支配下にある寺院のこと)に降格し末寺僧侶をして住職に定める
ことになった。
  万延元年七月仮本堂を建立した。建坪三十坪、明治三年仮御殿、廊下を新築した。
然し明治九年国道改正によって村民の多くは国によって住宅の移転を命ぜられたのと
道場の狭隘(きょうあい・面積などが狭くゆとりがないこと)を見。その後雨中や大
雪の中で教導葬儀などに不便を感じたために、当時の住職・間瀬徳温が自分の所有地
一千二百坪を寄付し、移転の際出願し、明治十五年五月六日に許可を得て現在の位置
に移転した。旧境内地は桔梗三八九番地、新境内地は桔梗二ニ一番地で、新旧両境内
地の直接距離約四丁である。
  その後、堂宇(どうう・神仏を祭る建物)が大破したので明治三十七年に二代住職
間瀬義雄門徒が協議し翌三十八年本堂、庫裏(くり)木造瓦葺百三十一坪を改築した
が、昭和二十二年二月同居させておった樺太引揚者の不注意によって失火し、全焼
化してしまった。現在、仮堂に住まいし法宝物は避難する事ができたが重要書類は全
部焼失してしまった。
  降格当時の住職は間瀬徳温で、越後国三島郡間瀬村願竜寺の弟で天保十二年出生、
文久元年得度(とくど・仏教における僧侶となるための出家の儀式)、明治三年五月
現如法嗣が北海道開拓のために北越御通行の際に出願してその随員に加えられた。時
に三十九才、御一行の随って渡道し、札幌管刹詰(かんさつづめ)となって札幌で年
を越し、翌四年六月、本山の制度改正の際に解職され、三千匹賞与された。その後引
き続き函館別院で勤務し、明治十一年十月十一日付をもって開教功労者として宝皇寺
住職に任命された。
  明治三十三年徳温示寂(じじゃく・高僧などが死ぬこと)行年六十才であった。
  
  桔 梗 共 同 墓 地 
  開拓した祖先の眠れるこの墓地は、開拓の草分け、佐々木善右衛門氏外二十四名の
共同所有による共同墓地で、各人墓地は六尺四方のの一坪宛てである。
  参考資料(宝皇寺間瀬住職の保存せる写しより)
  〇 開拓随員許状          越後間瀬村
                           願竜寺  徳  温
                           吹  挙 人  本間愷男
     右願之通 今度開拓御用ニ付彼地迄御供被申付候条
     難有存願出精相勤申可候事
               午    五    月  
                           御本山 御  納  戸  方   ㊞   
  〇 随員解職並ニ賞与下付状
                                        徳   温
     昨年札幌本府へ相詰龍在候処、   今般開拓御仕方御改正ニ付、
     其方儀モ帰国被御渡候、 仍而金子三千匹下賜之候也
                                    下   間   竹   崖 
  ・・・・・・続く 

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開基百年記念誌「桔梗沿革誌」(2)
開基百年記念「桔梗沿革誌」(8)第一章 桔梗村開拓の由来 第四項 宝 皇 寺 
10 開基百年記念「桔梗沿革誌」(10)第一章 桔梗村開拓の由来 第六項 サイベ沢遺蹟
11 開基百年記念「桔梗沿革誌」(11)第二節 三軒家の開拓
◎ 
福田和助翁記念之碑探訪(西桔梗)三軒家の開拓での偉業を讃えた記念碑
12 開基百年記念「桔梗沿革誌」(12)第三節 桔梗小学校の開校
14 開基百年記念「桔梗沿革誌」(14)第五節 鉄道の開通と郵便局
15 開基百年記念「桔梗沿革誌」(15)第二項 桔 梗 驛 の 開 業 と 日 本 通 運
開基百年記念「桔梗沿革誌」(16)第二項 桔梗驛の開業と日本通運 日本通運桔梗営 業 所
18 開基百年記念 第二章 桔梗村の産業 ◎ 第一節 産業の推移 第一項 開拓の當初
19 開基百年記念「桔梗沿革誌」(19)第二章 桔梗村の産業
20 開基百年記念「桔梗沿革誌」(20)第二章 桔梗村の産業◎第五項 農機具の変遷
21 開基百年記念「桔梗沿革誌」(21)第二章 桔梗村の産業 ◎ 第二節 亀田村農業協同組合
22 第二章 桔梗村の産業 産業の推移◎ 第三節 中の沢開拓農業協同組合