第ニ項 移 民 の 保 護 と ニ 大 事 業
次に居住民に飲料水を供給するために、給水溝を掘る事、並びに交通運搬の便を計る
ために、道路を開墾する事を計画、これを開拓当初の二大事業として、東本願寺は工費
三百九十両一分(御別院日記による)を投じて、念仏沢及びタタラ沢を水源として現園田
牧場(通称)を通り村内を貫流させたもので、幅五尺深さ三尺、延長一里半に及んでる。
万延元年八月起工し、同年十月完成した。
前記の給水溝は現存し、この水によって現在桔梗の水田百六十町歩は全部灌漑されて
おり、又、この水を利用して水車をかけて製米、製粉なども行われ、その恩恵をこうむ
ること甚(はなはな)だ大である。
又、さらに道路は本村より海岸の上磯町の七重浜に通ずるもので、当時は、濕地(しっ
ち)、沼知にして、人馬ともに没すると言われたところであり、工費二千八百四十両をか
け、幅五間、砂利敷、両側に幅六尺、深さ四尺の排水溝を設け、路傍には柳樹一千五百
株を植樹した。延長八百余間、万延元年八月着手、翌二年七月竣工した。現比遅里神社
向かい側より入り、七重浜に通ずる本願寺道路と称されているのがこれであり、改修さ
第三項 桔 梗 村 の 獨 立
かくて東本願寺開発場が安政六年に開拓され、東本願寺が直接開拓並びに支配してか
ら十三年目の明治四年に至り、廃藩置県に関連して桔梗野も政府へ上致することになっ
た。よって明治四年五月十四日付をもって箱館御坊留守居、能量寺岡崎元肇より開拓使
農政役所へ、同地は東本願寺が開拓した特殊の因縁ある地域であるが故に、今後特に桔
梗村という一村に取り立てられたい旨を出願したところ、同月十八にをもって
『願之趣聞届、以後桔梗村ト相唱、村役人之義ハ小前一同入札之上取極メ可申出事』
という指令が付与された。かくして桔梗村が東本願寺の支配を離れて独立した一村とな
るに際しては、本山は更に金五百両を下附して同村の独立整備を助成したるによって明
治四年五月、亀田、桔梗村外四カ村は共同して戸長役場を設置したのである。
同年七月ニ日、能量寺より開拓農政役所へ提出した報告は次の通りである。
桔 梗 村 書 上
一、人口ヨリ出口迄往来凡ソ二十七丁
一、川並ビニ橋数 四カ所
一、男女人別 百二十四人
内 男 六十九人 女 五十五人
一、田畑作物類、粟、稗、麦、大豆、小豆ノ類、田作之義ハ近年見合セ
一、村地境ヨリ海岸迄凡十五丁
一、山迄 凡二里半
一、馬 七十三疋 牛ハ無之候事
一、積殻ハ無御座候事
一、売渡シ候者之 但産業之薪炭、野菜物売出シ候事
一、秣場 凡五十六万八千坪、但谷地共
一、神社 一カ所 但聖徳太子
一、寺 一カ所 当山掛所
右之通取調書上候条相違無御座候也
辛末七月二日
東 本 願 寺 掛 所
留守居 能 量 寺
農 政 御 役 所
幕末時代、北海道各地に入植した移民団体が大部分失敗して離散した中にあって、東
本願寺の開発場が堅実な歩みをもって桔梗野を開き、有終の美を済して現在に及んでい
る事実は称賛に価するものである。
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1 開基百年記念誌「桔梗沿革誌」(2)
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第二章 桔梗村の産業 産業の推移◎ 第三節 中の沢開拓農業協同組合 9
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