第一節 東本願寺の桔梗野開拓
第一項 桔梗野開拓 ~ 第ニ項 移民の保護とニ大事業
又、安政六年十二月の戸口調査によれば、永住七十九人のうち、男四十人、
女三十九人、出稼ぎ六人であったが、翌、万延元年(1860年)桔梗野耕作取
調なるものを見れば次の通りである。
女三十九人、出稼ぎ六人であったが、翌、万延元年(1860年)桔梗野耕作取
調なるものを見れば次の通りである。
◇ 桔梗野百姓一統
田畑開発ノ上、作物取上高並ニ家数人別、牛馬等相調べ左に書上申候事
一、家 数 二十八軒
一、人 数 九十五人
一、雑具、物置、馬屋、物入 二十五棟
一、馬 数 七十六疋(ひき)
一、 田 一万三千坪
一、 畑 六万五千坪
一、酉 年(とりどし)上り高 (粟、稗、大豆、小豆共) 二百八十俵
一、戌 年(いぬどし)上り高 (粟、稗、大豆、小豆共) 三百五十俵
一、御 米 三十俵
右の通リ御座候 以上
亥(いのしし) 二月廿五(25)日 桔梗野村
勘 十 郎
元 吉
嘉 兵 衛
永 吉
御別院御勤番御役僧御中
然るに慶応三年十二月の調査には永住二十二戸、人民七十九人(うち男四十
六人、女三十三人になっている。
六人、女三十三人になっている。
このように移住する者あり、転居する者があって毎年戸数に若干の移動はあ
ったが、東本願寺で手厚い保護と援助を与えたにかかわらず減じたということ
は、いかに開墾事業の困難であったかということが想像できる。
ったが、東本願寺で手厚い保護と援助を与えたにかかわらず減じたということ
は、いかに開墾事業の困難であったかということが想像できる。
明治四年(1871)五月調査『桔梗野庁用並人別簿』によると、居住農民
の出生地、並に性別は次の通りである。
の出生地、並に性別は次の通りである。
《出生地》能戸・十六、南部・八、越中・四、津軽・秋田・越後・松前・各一、
不明・一
《人口性別》 男・六十九名(大人五十四名、小人十五名、
女・五十五名(大人三十七名、小人十八名)
合 計 百二十四名
第ニ項 移民の保護とニ大事業
安政六年春、まず第一にこれら移住農民のために東本願寺は、同村障子山から
木材を伐出して、桁行十軒(約18メートル)、梁(はり)間三軒(約5,4
メートル)の長屋二棟を建て、一時ここに収容し、更に耕作地を割り与えて家屋
を建設させた。
木材を伐出して、桁行十軒(約18メートル)、梁(はり)間三軒(約5,4
メートル)の長屋二棟を建て、一時ここに収容し、更に耕作地を割り与えて家屋
を建設させた。
移民の保護については、この外、各戸に鍋二枚、手桶などの日曜什器、農具及
び牛一頭、馬一頭を給し、住宅は無賃で貸与し、且つ満三年間は、毎日男子に
玄米七合、味噌三十匁、女子には玄米五合、味噌二十匁を与え、満七歳以下の小
児には、女子と同量を与えることを定め、開墾経費は主として御坊において、毎
月東照宮十七日講を催して、その供米、及び講金をもって支弁し生活の安定と開
墾の促進に努力したのである。
び牛一頭、馬一頭を給し、住宅は無賃で貸与し、且つ満三年間は、毎日男子に
玄米七合、味噌三十匁、女子には玄米五合、味噌二十匁を与え、満七歳以下の小
児には、女子と同量を与えることを定め、開墾経費は主として御坊において、毎
月東照宮十七日講を催して、その供米、及び講金をもって支弁し生活の安定と開
墾の促進に努力したのである。
今日の如く農村として自立自営を確立できたのは、全く東本願寺の功績である
と言わざる得ない。
と言わざる得ない。
次いで、農場を東本願寺開発場蝦夷国六条郷安寧村と称して、開墾役所として
村政一切の事務整理、並びに移住民の教化と指導監督のため一宇を創立し、箱館
御坊より隔日交代で留守居一名、番僧一名出張勤務しており、寺を『東本願寺別
院広大寺』と称した。
村政一切の事務整理、並びに移住民の教化と指導監督のため一宇を創立し、箱館
御坊より隔日交代で留守居一名、番僧一名出張勤務しており、寺を『東本願寺別
院広大寺』と称した。
当時、住民には次のような鑑札が各戸に付与されていた。
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| 桔 梗 野 御 百 姓 の 御 取 立 候 事 |
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| 年 月 日 |
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| 箱 館 御 坊 印 |
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