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     第一節 東本願寺の桔梗野開拓  
     第一項 桔梗野開拓

  蝦夷地が松前家より移って幕府の直轄となり、政治の中心が福山(現在の松前)より
箱館に移るようになった頃、東本願寺は仏教の伝播の遅れている蝦夷地の布教の方法を
通常の手段によるをはがゆく思って、幕府がしきりに北地開拓に焦慮しているのを看做
(みな)して、蝦夷地開拓の功をもって同宗を公布しようと欲して、幕府直轄後、本道
開拓に従事し、その功をもって本道に寺院道場を設立することの特権を得ることに成功
した。
  本村は開村最も新しく、東本願寺廿一世(にじゅういちせい)光勝上人の開拓したも
であり、安政六年(1859年)二月、箱館御坊浄玄寺役僧開明(役僧とは葬儀や法
事などで導師について従う僧のこと)などが開墾候補地を実地検分し、同年四月に本山
を使僧(使者として遣わす僧)斉聖寺徳善をもって正式に箱館奉行堀織部ノ正(ほりお
りべのしょう)に請願し、桔梗野の荒蕪地(荒れて雑草などの生い茂った土地)を開拓
しようとした。幕府は大いに賛同して、種々の便宜を与えてその希望を成就(じょじゅ
)させようとし、奉行所役人・坪内幾之進を立合わせ土地を貸下し『東本願寺開発場桔
梗野』(別称・蝦夷国六条安寧村(あんねいむら))と称した。
  その土地は、間口一千五百間(一間は1.81m)、奥行きは軍川村村境に至る数里
(一里は約3.9キロメートル)にわたる広漠たる地域で、宝皇寺・現住職間瀬徳雄氏
の調査によれば耕地約七百町歩(一町歩は3,000坪、9,900㎡)、秣草場(草
刈り場並びに放牧地)約五十六万八千坪であった。
  明治十六年、亀田村戸長役場が同村松本勘十郎から聞き取った調査によれば、 『京都
東本願寺において、当郡、箱館その他の人民に全土切り開くべしと誘致し、安政六年六
年四月、およそ四十人位の有志をつのり荒蕪地を懇請したる由』とあるが 『安政六年
未七月改 桔梗野百姓人別帖』によると、入地者は安政六年十九戸、翌万延元年二戸、合
計二十一戸、六十二名となっている。
  その内訳は次の通りである。
《出生地》
能戸・七、南部・四、秋田・三、越後・二、津軽・一、常陸・一、江差・一、不明・二
《人口性別》 男・三十九名(大人二十五名、小人十四名、
             女・二十三名(大人十八名、小人五名)
             合  計   六十ニ名   二十一戸 
             
◇ 大谷光勝(おおたにこうしょう)は、江戸時代後期から明治時代にかけての浄土真宗
の僧。法名は「嚴如」(ごんにょ)。東本願寺第二十一代法主 。真宗大谷派管長。  

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開基百年記念誌「桔梗沿革誌」(2)
開基百年記念「桔梗沿革誌」(8)第一章 桔梗村開拓の由来 第四項 宝 皇 寺 
10 開基百年記念「桔梗沿革誌」(10)第一章 桔梗村開拓の由来 第六項 サイベ沢遺蹟
11 開基百年記念「桔梗沿革誌」(11)第二節 三軒家の開拓
◎ 
福田和助翁記念之碑探訪(西桔梗)三軒家の開拓での偉業を讃えた記念碑
12 開基百年記念「桔梗沿革誌」(12)第三節 桔梗小学校の開校
14 開基百年記念「桔梗沿革誌」(14)第五節 鉄道の開通と郵便局
15 開基百年記念「桔梗沿革誌」(15)第二項 桔 梗 驛 の 開 業 と 日 本 通 運
開基百年記念「桔梗沿革誌」(16)第二項 桔梗驛の開業と日本通運 日本通運桔梗営 業 所
18 開基百年記念 第二章 桔梗村の産業 ◎ 第一節 産業の推移 第一項 開拓の當初
19 開基百年記念「桔梗沿革誌」(19)第二章 桔梗村の産業
20 開基百年記念「桔梗沿革誌」(20)第二章 桔梗村の産業◎第五項 農機具の変遷
21 開基百年記念「桔梗沿革誌」(21)第二章 桔梗村の産業 ◎ 第二節 亀田村農業協同組合
22 第二章 桔梗村の産業 産業の推移◎ 第三節 中の沢開拓農業協同組合