回 顧 録
この沿革誌を編纂するに際し、まず100年の当初を偲ぶために村内の古老10氏にご
来席を求めたが、国道工事その他の都合で次の3氏のご出席しか得られなかったが、こ
の3氏により次のような先人の労苦を偲び只々感激して平凡な現在であってはならない
と深く肝に銘じ将来のため特記する。
出席者:西田惣吉翁(明治5年生まれ、87歳)
小木作太郎翁(明治13年生まれ 78歳)
上田松太郎翁(明治20年生まれ 70歳)
編纂委員:土井、山岸、二間、永田、石倉
◇ 家屋と食料について
丸太の掘建小屋で屋根及び壁は草囲いで、お正月を米五升(一升は約1.5㎏)を持って
迎え、元旦の枕元には吹雪が入っていたのが当時の実情で、食物は主食として3年間は
米をお寺より支給されたが、その後は粟(あわ)、稗(ひえ)、大麦、豆等で稲作はな
く自給自足を建前とするので、夕に星を頂き朝に月影を踏んで働いたと言うことである。
◇ 気候の状況について
寒さは冬期間は相当長かったとのことで、水稲栽培にはずいぶんと苦労したとのこと
で、冬と言うか秋が早いと言うか、雷、次いで雪で、今で言えば冷害の年が続いたとの
ことで厳寒の時には酒が凍ったとのことであるから、今のように家屋の設備が完全でな
いとしても相当の厳しい寒さであったと思われる。従って冷害に強い作物の粟稗(あわ
、ひえ)が主に栽培されたいた事でも伺われる。
◇ 労働と服装について
当時は現在のように織物工業が発達していたのではないので、木綿織(もめんおり)
としても北海道では原料もなく、すべては内地(本州)から移入によって賄われたもの
である故(ゆえ)に、常に今のようにミシンでつくろいのできるということではなく、
足先から手の先までを考えても今のように軍手、しかもナイロンとかビニール等の化学
繊維の夢だになかった時代であれば、婦人のこれらの労働負担の加重は現在の青少年諸
氏には想像だになきことと思う。履物についても現在のように革皮製品、ゴム製品のな
い時代で、暖かい間はワラジ、寒さが加わるとツマゴ(爪子)と言う(草鞋(わらじ)の
先や全体につける藁(わら)製の覆い。また、それをつけてある草鞋)多く雪道に用いる
稲藁(いねわら)で手製のものを履いて働いたのである。
ツマゴは雪の降らないで凍り付きの多いときは長い凸凹(でこぼこ)が多いため、桔
梗から函館まで歩いて帰ると、藁であるため履き切れてしまうとのことである。また、
雪融け時期は濡れて、夜寝る時まで焚火(たきび)で乾かそうとしても乾かないので、
このツマゴを履く時期になれば毎晩一足づつツマゴを作ってから寝につくと言う状態
であった。ツマゴを作るのに藁を打って軟らかくして作製なるのだが、一足分を作製
するのに一時間半から二時間を要するとのことである。
としても北海道では原料もなく、すべては内地(本州)から移入によって賄われたもの
である故(ゆえ)に、常に今のようにミシンでつくろいのできるということではなく、
足先から手の先までを考えても今のように軍手、しかもナイロンとかビニール等の化学
繊維の夢だになかった時代であれば、婦人のこれらの労働負担の加重は現在の青少年諸
氏には想像だになきことと思う。履物についても現在のように革皮製品、ゴム製品のな
い時代で、暖かい間はワラジ、寒さが加わるとツマゴ(爪子)と言う(草鞋(わらじ)の
先や全体につける藁(わら)製の覆い。また、それをつけてある草鞋)多く雪道に用いる
稲藁(いねわら)で手製のものを履いて働いたのである。
ツマゴは雪の降らないで凍り付きの多いときは長い凸凹(でこぼこ)が多いため、桔
梗から函館まで歩いて帰ると、藁であるため履き切れてしまうとのことである。また、
雪融け時期は濡れて、夜寝る時まで焚火(たきび)で乾かそうとしても乾かないので、
このツマゴを履く時期になれば毎晩一足づつツマゴを作ってから寝につくと言う状態
であった。ツマゴを作るのに藁を打って軟らかくして作製なるのだが、一足分を作製
するのに一時間半から二時間を要するとのことである。
冬期間の外での作業を終えて家に入るのは午後五時から六時頃で、男は馬の飼料を明
日の分まで準備して家に入るのであるが、早くて午後の七時過ぎで夕飯をを済ませてツ
マゴを作る。それから明日の作業なり将来の事業なり村づくりなりを考えてから明日へ
の休養のため寝につくのであるから早くて十一時と言うことになる。
翌日は融雪時季になればツマゴが濡れるので帰りを考えて午前三時から四時頃のうち
に出発ということがあるので、寝る時間は三時間から四時間であったと言うから実に勤
勉であったと言える。現在の八時間労働が基準と見た場合、能率の面は別として実に長
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